感情は、相場の情報ではない。
あいだに、
一本の境界線が
見えた日。
その日の井口は、平静ではなかった。家庭で口論があった。かなり深いところを刺す種類のものだったらしい。
努力を認めてもらえないこと。長い時間をかけて積み上げてきたものと、家族にかけてきた苦労。「結果が出てから認められても、少し違うんだ」。そんな感情が、まだ処理されないまま残っていた。
本人の言葉を借りれば、気分は、ぶっ壊れていた。
その状態で、彼はチャートを開いた。
しかし、その日は違った。
チャートを見た井口の頭の中では、いつもの処理が始まった。
① ここがこう。その前がこう。だから今の向きはこっち。
② さらにド短期では、いったん反対方向を示す動きが出た。
③ しかし、その動きが「そうなるなら起きるはずだったこと」が起きなかった。
④ ならば、その仮説の信用度を下げる。ということは、やはり元の方向。
⑤ 「ああ、これ、いつものやつだ」
ターゲットも決めた。おそらくこの高値は抜いていく。だが、抜かなくても十分な利益になる場所がある。そこで8割程度を利確する。残り2割は伸びればボーナス。建値まで戻るなら、そこで終了。
それだけだった。
特別な精神統一はしていない。怒りを消そうともしていない。妻との問題が解決したわけでもない。
だが、それはもう、相場を見るための情報ではなかった。
25,119円は、この話の中心ではない
その日は、少し相場が良かった。少なくとも彼の技術にとって、トレード可能な動きが存在していた。だから利益になった。
そこには当然、相場側の巡り合わせもある。
もし同じ精神状態でチャートを開き、何もできない値動きだったなら。本当に重要なのは、そのとき何をするかだ。
「やることがない日」だ。
家庭で嫌なことがあった。チャートを開いた。だが、相場にも何もなかった。
そこで「せめて相場くらい俺に何かくれよ」とエントリーするのか。
それとも──
と悪態のひとつでもついて、チャートを閉じるのか。
後者を普通に選べるなら、この日の出来事は偶然の一勝ではなくなる。
「メンタルが強くなった」では、説明が足りない
トレードでは、よく「メンタル」という言葉が使われる。冷静でいよう。感情的になるな。平常心を保て。
もちろん、それらが無意味だとは思わない。
だが、この日に観測されたものは少し違った。
井口は平常心ではなかった。普通に傷ついていた。普通に腹も立っていた。
それでも、トレード判断は壊れなかった。
感情と判断を、別のレイヤーとして保持できた。
ULTRA THEORYを長く観測していると、この現象には既視感がある。
短期足が激しく下へ動いた。だからといって、上位構造まで下降へ変わったわけではない。一本のローソク足では視点が動いている。しかし、ひとつ上の粒度ではまだ何も確定していない。
森には森の情報がある。木には木の情報がある。枝には枝の役割がある。
目の前で激しく動いているものに、上位の判断まで奪わせない。
井口は、それを何年もチャートでやってきた。そしてこの夜、その技能がチャートの外へ少し漏れ出した。
家庭では、感情が大きく動いていた。しかしNASDAQの構造は、それによって一切変化していない。
当たり前の話である。
だが、人間はこの「当たり前」がなかなかできない。
感情に、相場への「書き込み権限」を与えない
感情をなくす必要はない。
怒っていていい。悲しくてもいい。家庭の問題について、考え続けていてもいい。
ただし、その感情に、相場判断を書き換える権限を渡さない。
家庭の感情には、家庭の世界で重要な意味がある。
だが、「NASDAQが上を向いているか」という問いに対して、その感情は一票も持っていない。
妻に認めてもらえなくて悲しい。それは本物だ。しかし、だからNASDAQを買う。これはおかしい。
腹が立っている。これも本物だ。しかし、だから利確位置を伸ばす。これもおかしい。
感情を否定する必要などない。
適用する場所を
間違えない。