第1章[中編]:相場の衝動と、N値・E値の洗礼
四、営業車のシートと、胸を焼く敗北感
強制ロスカットの警告音が頭の中でリフレインしていた。
昨夜、画面の向こうで吹き飛んだ30万円。
手取り40万円の夏のボーナスのほとんどが、口座残高の数字がゼロになった瞬間に煙のように消えた。
2019年、初夏の強い光がフロントガラスを透過し、営業車のダッシュボードを灼熱に変えていた。
エアコンの風量を最大にしても、背中に張り付いたYシャツの不快な湿り気は取れない。
車内のステアリングに突っ伏したまま、私は浅い息を繰り返していた。
「……こむぎさん、顔色悪いよ。今日の午後の新規開拓、大丈夫?」
助手席に座る後輩社員が、心配そうにこちらの顔を覗き込んできた。
私は意識して広背筋を伸ばし、顔の筋肉を無理やり引き上げて笑ってみせた。
「全然平気、ちょっと寝不足なだけ。さ、次の訪問先、行こうか」
完璧な営業マンの仮面。
だが、胸の奥は焼けるような敗北感と自己嫌悪でドロドロに溶けていた。
訪問先のオフィスで提案書を広げ、自社製品の強みを爽やかにアピールしながらも、思考の半分は昨夜のチャートの残像に支配されていた。
1回あたり数十円の営業インセンティブを積み上げる泥臭い仕事の合間に、指一本のミスで30万円を溶かした事実。
(なぜだ……? E値計算の限界点まで到達したんだぞ。計算式は絶対に間違っていなかったはずだ)
昼休み、賑やかな定食屋を避け、一人で公園のベンチに座ってコンビニの冷えたおにぎりを口に運ぶ。
スマホの画面を開くと、証券会社からの「強制決済完了のお知らせ」の無機質なメールが届いていた。
「自分が相場の天井や底をピンポイントで当てられるなんて、ただの自惚れだったんだ……」
おにぎりの米粒が、まるで砂のように味気なく喉を通っていった。
五、父親の仮面と、消えたボーナス
「パパ、おかえりー!」
夜、重い足取りで自宅の玄関を開けると、無邪気な子どもたちの声が出迎えてくれた。 リビングには、温かい味噌汁と焼き魚の香りが漂っている。
「今日ね、学校でこんなことがあったんだよ!」 「パパ、今度の週末、公園でキャッチボールしようね!」
屈託のない笑顔で話しかけてくる子どもたち。 「ああ、絶対やろうな」と頭を撫でながら、私の胸は張り裂けそうな痛みに締め付けられていた。
(ごめんな……本当にごめんな……)
家族のために、子どもの将来の選択肢を広げるために始めたはずのFXだった。 それなのに、手取り十数万円のボーナスを、自分の見栄と甘い勘のせいで一晩でドブに捨ててしまったのだ。
食卓の向こうで「いつも遅くまでお仕事お疲れ様」と微笑む妻の顔を、まともに直視することができなかった。 家族を守るべき父親失格の烙印を、自分の胸に深く焼き付けられたような気がした。
六、独学の限界と、「仲間」を求めた夜
布団に入っても、天井を見つめたまま一睡もできなかった。 目を閉じれば、激しく乱高下するローソク足と、マイナスが膨らんでいくツールボックスの赤い数字が網膜に焼き付いて離れない。
「なぜだ……? なぜE値の計算ラインで止まらなかったんだ……?」
悔しさと情けなさが、暗闇の中でドス黒い炎となって燃え盛る。 本やネットでかじった程度の浅い知識で、相場の波を完全に読み切った気になっていた自分の傲慢さ。 一人でPCに向かい、独学でチャートを眺めているだけでは、相場の巨大なモンスターに絶対に太刀打ちできない。
「負けたままで終われるわけがない。 相場の世界で本当に生き残っている実力者たちは、一体何をどう見てトレードしているんだ……?」
深夜一時、私はベッドから抜け出し、書斎のPCを立ち上げた。 ネットの投資掲示板、トレーダーが集まるブログ、そしてSNSのコミュニティ。 かつては「自分一人の力で稼いでやる」と突っぱねていたプライドを完全に捨て、私は貪るように「本物のトレーダーたちが集まる場所」を探し始めた。
こうして私は、孤独な独学を脱し、夜な夜な猛者たちが集う『ネットの投資コミュニティ』の扉を叩くことになったのだ。