第1章:相場の衝動と、N値・E値の洗礼[前編]
一、ビルの屋上と、画面の中の小宇宙
2018年、初夏の午後。
照りつける太陽がアスファルトの熱気を押し上げ、営業車のエアコンから送られる冷気が微かに汗を舐めていた。
私——こむぎは、都内の外回り営業の合間に立ち寄ったビル街のコインパーキングで、ハンドルに両肘を預けてスマホを見つめていた。
会社員としての仕事は、取引先への飛び込みや提案書の作成、そして何より毎月の「営業ノルマ」との戦いだ。毎日頭を下げ、数字を追いかける日々に、どこか漠然とした閉塞感を覚えていた時期だった。
「FX……外国為替証拠金取引、か」
きっかけは、ネットの広告で見かけた些細な文句だった。
24時間、世界中の通貨が売り買いされ、自分の注文一つで口座の数字がリアルタイムに増減する。スマホの画面に映し出されたローソク足の緑と赤の波は、まるで生き物のように蠢いていた。
(もし、自分の力でこの波を捉えることができたら……会社からの給料だけに依存しない、もう一つの自由な柱ができるんじゃないか?)
胸の奥がドクンと鳴った。
恐る恐る開設したFX口座に、なけなしの余剰資金を数万円だけ入金してみる。
ポチッ、と「買い」のボタンを押した瞬間の、あの心臓が跳ね上がるような緊張感。
価格が数ピップス上昇し、口座残高がプラス1,200円になった。
「すごい……! 本当に自分の指一本で、お金が増えた……!」
それまで知らなかった「相場」という小宇宙に、私は一瞬で魅了された。
会社員の営業として数字に追われる日々の中で、この青い光を放つ画面だけが、自分を新しい未来へ連れて行ってくれる魔法の扉に見えたのだ。
だが、それが甘い罠であることに気づくのに、そう時間はかからなかった。
ビギナーズラックは一週間も続かなかった。勘だけに頼ったトレードは即座に裏目に出始め、数回の連負けであっという間に利益を吐き出した。
「適当に買ったり売ったりしているだけじゃダメだ。相場には『法則』があるはずだ」
そう思い立った私は、営業回りの移動中や夜の時間をすべて投げ打ち、相場分析——いわゆる「テクニカル分析」の世界へ足を踏み入れることになった。
二、N値とE値 — 幾何学が授ける「聖杯」の幻影 —
独学でテクニカル分析を勉強し始めた私が、最初に強く惹きつけられたのが、波動論における「値幅観測論(N値・E値)」だった。
相場はランダムに動いているように見えて、実は美しい幾何学的な「波動」を描いて移動しているらしい。
上昇トレンドや下落トレンドにおいて、過去の波の高さや幅から「次の到達目標値」をpips単位で予測できるという理論というものだった。
私はノートに綺麗な図形を描き、何度も数式を叩き込んだ。
【波動における値幅観測論の基本構造】
・N計算値(N値):第1波動の値幅を、押し目(戻り)の起点からそのままスライドさせて予測する。
Formula: Target Price = B + ( A - L )
(安値Lから高値Aまでの上昇幅を、押し目安値Bにそのまま足し算した到達点)
・E計算値(E値):第1波動の値幅を、直近高値からさらに同等分伸ばして予測する最大波長。
Formula: Target Price = A + ( A - L )
(安値Lから高値Aまでの上昇幅を、さらに高値Aの上に丸々乗せた極限の到達点)
それを過去のチャート画面に当てはめたとき、ピタリと波が折り返す場面が何度もあった。
「……なんだこれは。完璧じゃないか!」
チャートに重なるローソク足を見つめ、私は震えた。
安値から高値まで100pip伸びた波があるなら、E値の計算上、その限界点に達した瞬間に買い手のエネルギーは尽きる。そこへピンポイントで逆張りのショート(売り)を叩き込めば、天井から一気に急降下する特大のpipsを根こそぎ抜き取れるはずだ。
理論は完璧だ。
相場が上昇し切り、E値という幾何学的な限界点に到達した瞬間、買い手のエネルギーは尽き、売り手が押し寄せる。
その「限界点」でピンポイントに逆張りを叩き込めば、そこが天井となり、一気に価格が滑落して爆大なpipsを抜き取ることができる。
私はチャートの上に水平線を何本も引き、N値・E値が計算できるインジケーターを活用して、指値注文を仕込んだ。
「自分は相場の天底をピンポイントで捉える『知的なトレーダー』になれた!」
そんな全能感にも似た錯覚が、頭を支配していた。
その時点で、あんな夜が来るとは思いもしていなかった・・・