追証の怖さ
追証という言葉を聞いただけで、今でも胃のあたりがざわつく感覚があります。あれは忘れもしない、私が投資を始めて10年ほど経った頃のことです。信用取引でかなりのポジションを抱えていたある朝、スマートフォンに証券会社からのメッセージが届きました。「委託保証金率が最低維持率を下回りましたので、追加証拠金を翌営業日の正午までにご入金ください」という内容でした。
読んだ瞬間、頭の中が真っ白になりました。追証が来るリスクは頭では理解していたつもりでした。でも実際に来たとき、その恐怖はまったく想定していなかったものでした。頭の理解と体の感覚は、まったく別物だということを、あの日の朝に思い知らされました。
追証、正式には追加証拠金といいます。信用取引をしている投資家が相場の急変などによって損失を被り、担保として差し入れている証拠金の価値が証券会社の定める最低維持率を下回ったときに、追加の証拠金を差し入れることを求められる制度です。
なぜこのような制度があるのかというと、証券会社が貸したお金や株を守るためです。信用取引では証券会社が投資家にお金や株を貸しています。投資家が損失を出し、その損失が証拠金を上回るような事態になると、証券会社が損害を被ります。それを防ぐために、損失が一定の水準に達した時点で追加の証拠金を求める仕組みが設けられているのです。
委託保証金率の仕組みを具体的な数字で説明します。たとえば証拠金として100万円を差し入れ、レバレッジをかけて300万円分の株を買ったとします。このとき委託保証金率は100万円を300万円で割った33.3パーセントです。証券会社の最低維持率が20パーセントだとすると、300万円のポジションに対して60万円が最低限必要な証拠金の額になります。
この状態から株価が10パーセント下落したとします。300万円のポジションが270万円になりますが、損失の30万円は証拠金から引かれます。証拠金は100万円から30万円を引いて70万円になります。この時点での委託保証金率は70万円を270万円で割った25.9パーセントです。まだ最低維持率の20パーセントを上回っているので、追証は来ません。
しかしさらに株価が下落し、ポジションが250万円になったとします。損失の合計は50万円です。証拠金は50万円になります。このときの委託保証金率は50万円を250万円で割った20パーセントです。ちょうど最低維持率に達しています。
さらに少し下落して、ポジションが245万円になったとします。損失は55万円で証拠金は45万円です。委託保証金率は45万円を245万円で割ると18.4パーセントです。最低維持率の20パーセントを下回ったため、ここで追証の通知が来ることになります。
追証が来たとき、投資家には基本的に二つの選択肢があります。一つは追加の資金を入金して証拠金を補充することです。もう一つはポジションの一部または全部を決済して、ポジション規模を縮小することです。どちらもできない場合や、期限内に対応できない場合は、証券会社が強制的にポジションを決済します。これを強制ロスカットといいます。
強制ロスカットが執行されるとき、相場の状況は往々にして最悪の状態であることが多いです。なぜなら、追証が来るということは相場が大きく動いているということだからです。そのような状況では、売りたくても売れなかったり、最悪のタイミングで決済されてしまったりすることがあります。
私が追証を経験したあの日のことを、もう少し詳しくお話しします。前日の夜にアメリカの株式市場が大きく下落しました。翌朝の日本市場への影響を心配しながら眠れない夜を過ごし、市場が開く前にチェックしたスマートフォンに追証の通知が来ていたのです。
最初に感じたのは否定の感情でした。「まさかこんなことが起きるはずがない」という気持ちです。次に来たのは焦りです。「どうすれば良いのか」と頭の中がぐるぐると回り始めます。そして最後に来たのは後悔です。「なぜこんなに大きなポジションを取ってしまったのか」という自己嫌悪です。
その日の朝、市場が開いてからの値動きは凄まじいものでした。前日のアメリカ市場の下落を受けて、日本市場も大幅安で始まりました。私のポジションはさらに損失が拡大していきます。追証の金額もどんどん増えていく。追加入金しようにも、すぐに用意できる現金には限りがあります。
結局、私はポジションの一部を損切りして対応しました。しかしその損切りのタイミングは最悪で、その後株価が反発したことで、損失は実際の底よりもかなり大きくなってしまいました。あの日の損失額は、今でも正確に覚えています。それほど鮮明な記憶として刻み込まれているのです。
追証が怖い理由はいくつかあります。まず第一に、精神的なダメージが非常に大きいということです。追証が来るということは、すでに大きな損失が出ているということです。その状況でさらに追加の資金を入れるという判断は、極めて難しい精神的な作業です。損失が出ているポジションに追い資金を入れることへの抵抗感と、入れなければさらに損失が拡大するかもしれないという恐怖が同時に押し寄せてきます。
第二に、時間的なプレッシャーがあります。追証には期限があります。翌営業日の正午までというのが一般的ですが、場合によってはさらに短い期限が設定されることもあります。この時間的なプレッシャーの中で、冷静な判断を下すことは非常に難しいのです。
第三に、追証が連鎖するリスクがあります。追証に応じるために手持ちの現金を入金したとしても、相場がさらに下落すると再び追証が来ます。そのたびに資金を追加していくと、最終的に手持ち資金がすべてなくなるという事態になりかねません。これを追証の連鎖と言います。
歴史を振り返ると、追証の連鎖が個人投資家に大きな被害をもたらした事例がいくつもあります。リーマンショックのとき、日本の株式市場は数ヶ月にわたって急落し続けました。信用取引で大きなポジションを持っていた多くの投資家が追証の連鎖に巻き込まれ、手持ち資金のすべてを失うどころか、多額の借金を抱えることになりました。当時の状況を語る投資家の話を聞くと、まるで地獄のような体験だったと言います。
コロナショックのときも同様でした。2020年3月、わずか数週間で日本の株式市場は30パーセント以上急落しました。このスピードは過去に類を見ないほど速いものでした。信用取引でロングポジションを持っていた投資家は、あっという間に追証の嵐に見舞われました。追証に応じきれず、最悪の局面で強制ロスカットされた投資家も多かったと言われています。
追証が来たときに最も悪い対応は何かというと、追証に応じるために借金をすることです。消費者金融やカードローンなどでお金を借りて追証に応じようとする投資家がいますが、これは絶対に避けなければなりません。投資の損失は金融機関から借りたお金で補填してはいけないのです。なぜなら、その後さらに相場が下落したとき、投資の損失に加えて借金の返済という二重の苦しみを抱えることになるからです。
追証を避けるために最も重要なことは、最初からレバレッジをかけすぎないことです。信用取引でフルレバレッジをかけることは、わずかな相場の動きで追証が発生するリスクを抱えることです。相場というのは、長く続けていれば必ず予期せぬ急変が起きます。そのときにフルレバレッジのポジションを持っていると、対応が非常に困難になります。
私が信用取引でポジションを取るときのルールとして自分に課しているのは、追証が来ても精神的に余裕を持って対応できるレバレッジの範囲内に留めるということです。具体的には、たとえ30パーセント下落しても追証が来ない水準に設定しています。30パーセントというのは、過去の大きな下落局面における最大の下落幅を参考にしたものです。
もう一つ重要なのは、信用取引専用の余剰資金を別に確保しておくことです。万が一追証が来たときに即座に対応できる現金を、信用取引の証拠金とは別に手元に置いておくのです。この余剰資金があるかないかで、追証が来たときの心理的な余裕がまったく違います。
信用取引の怖さは、損失が雪だるま式に膨らむ可能性があることです。相場が急落するとき、多くの投資家が同時に売りに出ます。その売り圧力がさらに株価を押し下げ、追証が発生した投資家の強制ロスカットがさらに売り圧力を加え、株価がさらに下落するという悪循環が生まれることがあります。これを下落の連鎖と言います。
このような市場のパニック状態のとき、個人投資家が冷静に判断することは非常に難しいです。人間は損失が出ているとき、それを認めることへの強い心理的抵抗を感じます。「もう少し待てば回復するはずだ」という希望的観測が、損切りの判断を遅らせます。そしてその間にも損失は膨らんでいきます。これが信用取引における最も典型的な失敗パターンです。
私は追証を経験した後、信用取引のポジションを大幅に縮小しました。そして1年間ほどは信用取引を使わずに現物取引だけで相場と向き合いました。その期間に私が感じたのは、現物取引の精神的な安定感でした。相場が下落しても、最悪の場合は投資した金額が半分になるだけです。追証の恐怖もなく、強制ロスカットの心配もない。その安心感は、現物取引の利益率の低さというデメリットを補って余りあるものでした。
追証の経験から学んだことをお伝えします。まず、相場は必ず自分の予想と反対に動く瞬間があるということです。どれだけ自信を持った分析に基づいたポジションでも、相場が反対に動くことはあります。その現実を謙虚に受け入れた上で、常に最悪のシナリオに備えておくことが重要です。
次に、追証が来たときは感情ではなくルールで判断するということです。追証が来るような状況は、精神的に極度に追い詰められている状態です。そのような状況で冷静な判断を下すためには、事前に決めたルールに機械的に従うしかありません。追証が来たら迷わず一部を損切りする、という明確なルールを持っておくことが重要です。
そして最も大切なのは、追証が来ても生活に支障が出ない範囲でしか信用取引をしないということです。信用取引は投資の一手段に過ぎません。それによって生活が破壊されるようなリスクを取るべきではありません。生活費、緊急予備費、そして投資資金は明確に分けておく必要があります。
私の知人に、追証の連鎖に巻き込まれて全財産を失った人がいます。彼は会社員として働きながら信用取引で大きなポジションを持っていました。リーマンショックの急落で追証が連発し、手持ちの現金をすべて使い果たしても足りず、最終的には家を売ることまで検討しなければならない状況になりました。幸いにして家を売らずに済みましたが、投資で作り上げた資産はすべてなくなりました。
彼が後から語ってくれた言葉が今でも印象に残っています。「あのとき一番つらかったのは、追証の通知が来るたびに、自分の判断を信じるか諦めるかを選ばなければならなかったことだ。損切りすれば損失が確定して取り返せないかもしれない。でも持ち続ければさらに損失が拡大するかもしれない。その選択を何度も何度も繰り返すうちに、精神的に限界になっていった」と。
追証という制度は、投資家を守るために存在しているわけではありません。証券会社がリスクを管理するための制度です。そのことを理解した上で、自分自身を守るための対策を投資家自身が考えなければならないのです。
投資は長く続けることが最も重要です。一時の失敗で退場してしまえば、それで終わりです。追証のリスクを適切に管理して、どんな相場環境でも退場せずに生き残り続けることが、長期的な投資成功への唯一の道だと私は思っています。
信用取引は魅力的な仕組みです。しかしその魅力の裏に、追証という非常に厳しい現実が潜んでいます。この現実を正面から直視した上で信用取引と向き合うことが、投資家として成熟するための重要なステップだと思います。追証の怖さを知った上で、それでも信用取引を使う必要があるかどうかを自分に問い直してみてください。その問いへの答えが、あなたの投資スタイルをより確固たるものにしてくれるはずです。
Is it OK?